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2018.08.20
日本の「繊維産地」2 ~ 西日本編 ~
繊維は、人間の生活に欠かすことの出来ない三要素「衣・食・住」の一つとして、古くから日本国内で生産され、日本人の生活文化を支えてきました。
そして、繊維製品の輸入比率が異常な高まりを見せる中にあっても、いまだ日本国内には高度な技術の蓄積があります。
当社は、この点に着目し、日本の産地が将来に亘って残っていく事が大切だと考えています。
日本の「繊維産地」1 ~東日本編~ に続いて
西日本に点在する繊維産地の歴史と特徴をご紹介していきます。
↓クリックで拡大します。
【東日本】
①米沢 ②栃尾・見附 ③桐生 ④富士吉田
⑤天龍社 ⑥遠州 ⑦三河 ⑧尾州
【西日本】
⑨北陸 ⑩湖東 ⑪泉州 ⑫丹後
⑬西脇 ⑭三備 ⑮今治 ⑯博多
当社の主力取扱商材である合成繊維(ポリエステル・ナイロン)の一大生産地として有名なのが、この北陸産地です。長繊維(フィラメント)の合繊織物・編物(ニット)においては、全国の90%が北陸産地で生産されています。
北陸地方で繊維業が盛んになった理由としては、降水量が多く湿潤なため静電気が起きにくく、織物を作るのに適していたこと、厳しい寒さが長引く冬期に、農家の副業として営まれていたことなどが挙げられます。
福井県では、西暦2~3世紀ごろ、大陸から集団移民してきた人々から養蚕と製織の技術の伝来があり、絹織物業が発展してきたとされています。奈良時代の元明天皇から絹織物の生産が命じられていたことが史実として残っています。
福井県が絹織物産地としての名声を上げたのは、1600年ごろの安土・桃山時代~江戸時代にかけてのことです。徳川家康の次男であり、初代福井藩主の松平秀康が、当時、苦戦していた絹織物の品質改良を奨励し、「北荘紬(つむぎ)」と改称させ、公儀献上品にするべく品質の底上げを行いました。やがて全国各地に知れ渡り、藩の財政基盤として重宝されてきました。
石川県においては、「加賀絹」の発祥地とされる小松で、大和時代に養蚕と製織の技術を既に会得しており、雄略天皇へ奉献していたとされています。室町時代には、将軍足利氏へ献上したことをきっかけに、加賀絹の名声が高まり、戦の幟旗などに使われるようになりました。
江戸時代では、加賀藩の藩祖、前田利家の四男にして第2代藩主の前田利常が、美術工芸に造詣が深く、これらの産業や文化を積極的に保護・奨励しました。この影響で、加賀における機業地としての基盤はより強固なものとなりました。
富山県についても、明治以前から、麻・綿・絹などの生産が行われてきました。
近代における北陸産地は、最新鋭の技術を惜しみなく吸収していき、他の日本産地をリードする存在となっていきます。
1900年:当時では最新鋭のバッタン機を導入、桐生より羽二重が伝来し全国的産地へ。
1915年:力織機への完全転換を図り、工場制手工業から機械制工業へ。
1920年:レーヨンの登場に伴い、人絹織物の輸出に注力。
戦 後:設備の近代化を進める。人絹織物から、合繊長繊維織物への転換。
1973年:北陸産地は米国の合繊長繊維織物生産量を上回り、世界最大の産地へ躍進。
現在では、全世界の合繊長繊維織物は8割が東アジア地域内で生産されています。しかし、1985年頃より頭角を表してきた中国は、その内の5割の生産量を占めています。これに韓国・台湾も巻き込んで、激しい国際競争が加速しています。
北陸産地が生き残るためにとった対策は、国際間競争の激しい衣料用分野においては、コスト競争に張り合わずに高機能加工の技術開発で差別化をはかること、非衣料分野の産業資材向け(自動車資材・土木関係資材など)においては率先して技術開発・用途開拓を積極化させることです。この結果、唯一性を得た北陸産地の技術力は、世界から高い支持を受けています。
当社の扱う定番生地は、北陸産地の持つ合繊織物・編物生産における世界トップクラスの技術と品質がベースとなっています。定番生地の多くは、東レを始めとした一流の合繊メーカーの技術に基づく最先端の商品を扱っています。その一方で、福井県に営業所を構え、永い歴史に裏打ちされた産地に根付く技術の奥深さを理解した上で、地元企業と密に連携を取り、多種多彩な素材・加工にスポットライトをあてていく事を重要視しています。
北陸産地で生産されたものも含め、日本製の生地を多数取り扱っております。
当社の在庫ストックラインナップをご覧ください!
滋賀県の湖東地域は、日本最古の麻織物の産地として知られています。「近江上布(おうみじょうふ)」などの高級麻織物が有名です。
麻は強靭かつ耐水性にも優れますが、逆に乾燥は天敵です。麻を生産するには湿潤な気候が必要で、琵琶湖に面する湖東産地は最適な環境といえます。
麻の生産は、武家社会となった鎌倉時代~室町時代にかけて増加しました。武士や庶民の衣服だけでなく、陣幕や兜や鎧の裏地などに使われ、軍事的側面での需要が高かったと言われています。通気性があり、汗に強く、かつ丈夫(矢を通さない)だったからです。湖東産地は、その後の江戸時代で良質な麻織物「高宮布」の産地としてその地位を確立しました。高宮布は、経・緯糸ともに大麻(たいま・ヘンプ)が利用されています。一般的に大麻は、苧麻(ちょま・ラミー)に比べ、野良着などに使われる低品質のものとされています。しかし、細い麻糸と高い技術力を駆使することによって、張りと光沢がある上物に仕上げたものが「高宮布」です。江戸時代、彦根藩は、産地品の振興と武家用の袴地を確保すべく、これを保護・奨励し、将軍家への献上品にもしていました。この高宮布が後に「近江上布」と呼ばれることになります。
現代では「近江上布」はシャツやハンカチ、ストールなどに使われ、根強い人気を誇っています。後継者不足による工場の廃業で、産地の衰退は避けられない状況ではありますが、復興を目指すべく、地元のメーカーが新技術の開発とブランド戦略を進めています。
白生地綿織物をメインに取り扱っており、衣服だけでなく、寝装、シーツ、産業資材、浴衣、衛生材料ガーゼ等、多品種の製織を行っています。泉州産地は「和泉木綿(いずみもめん)」をきっかけに綿織物の産地として有名となりました。
1500年初頭、三河発祥の綿織と技術は和泉国(いずみのくに)に普及されました。元々、泉州産地の気候・土壌は、稲作よりも綿の栽培に適していました。絹織職人も木綿織りに転業し始め、泉州産地の綿の生産・研究開発は急成長します。毛足が長く良質な泉州産地の木綿は、細い糸を紡ぐことができたため、その糸で織り上げた生地は「和泉木綿」として評価されるようになりました。染色用の薄手の晒木綿(さらしもめん)として、浴衣や手拭、裏地などに用いられました。
近代に入ると、海外の安価な輸入が市場を席巻し、泉州産地も生産性を高めるべく、織機の開発や工場の設立で、効率重視の生産体制に乗り出すようになり、人の手で紡がれていた「和泉木綿」の生産は無くなってしまったといいます。
泉州では、綿の製織技術をベースに、多様な繊維商品が開発されてきました。1885年、佐野村で白木綿業を営んでいた里井圓治郎(さとい えんじろう)は、舶来雑貨商の友人から、ドイツ製タオルの研究を依頼されました。約2年開発に取り組み、パイルを生成する打出機を発明、日本で初めてタオルの製織を確立しました。
また、日本で初めての毛布が誕生したのも、この頃の泉州産地です。当初は、輸入品の牛毛布に倣って、牛毛で作られましたが、品質が低く失敗に終わりました。日清戦争以降は、素材を綿に変えることで、中国向けの輸出で成功を収め、大正時代には、現代の毛布と同様に羊毛を使う形に変わっていきました。
今では生産が止まってしまっている「和泉木綿」も産地の綿業者の手により、地場ブランドとして現代に復活させようとする取り組みが行われています。
日本最大の和装絹織物の産地です。国内の和装(着物等)白生地の約60%を生産しています。
独特の凹凸感(シボ)をもつ「丹後ちりめん」が有名です。経糸に撚りのない生糸(きいと)、緯糸に強い撚りをかけて糊で固めた生糸を交互に使い平織にし、その後、精練することで緯糸の撚りを戻すと、生地全体に細かい凹凸感が出るという仕組みです。風合いがしなやかで発色性もよく、美しい彩りに仕上げる和装文化とマッチしており、着物の生地としては最適な素材でした。
丹後地方に伝わる織物の歴史は古く、奈良時代には聖武天皇に「あしぎぬ」と呼ばれた絹織物を献上していた記録が確認できます。江戸時代に、西陣で絹織物「お召ちりめん」が開発されると、丹後地方の特産品は苦戦を強いられていました。その解決策として、峰山の絹屋佐平治(きぬや さへいじ)、後野村(うしろのむら)の木綿屋六右衛門(もめんや ろくえもん)らが京都の西陣から技術を持ち帰り、それを元に作られたのが「丹後ちりめん」の始まりです。当時、西陣の技術は一子相伝で門外不出のものだったので、丹後地方に活気をもたらしたといいます。そして峰山藩、宮津藩に手厚く保護を受け、丹後の地場産業として根づきました。
「丹後ちりめん」で培われた技術力は現代にも受け継がれ、ポリエステルやレーヨンのような合成繊維でも作られています。2020年には生誕300年を迎える「丹後ちりめん」ですが、丹後産地を世界規模でさらにアピールすべく、新しいブランド戦略が始動しています。
三備産地は、岡山県倉敷市児島を中心とする「備前(びぜん)地区」、岡山県井原市を中心とする「備中(びっちゅう)地区」、広島県福山市を中心とする「備後(びんご)地区」の三大産地によって形成されています。それぞれ、学生服・デニム素材・ワーキングユニフォームの産地として有名です。
備前地区には干拓地(浅い海に囲いをして陸地にした地)が広がっており、綿花の栽培が盛んにおこなわれていました。干拓地には海水の塩分が残留していたのですが、綿花は、米などの農作物よりも、比較的塩分に強いという特性があったため、綿花の備前地区は綿織物の産地として発展、農家の副業として、織物の生産も進められました。
江戸時代には帯地・袴地が、明治時代には足袋が生産され、昭和初期は、第一次世界大戦後の戦後恐慌を機に、学生服の製造が中心になりました。時代背景によって特産品の変遷が見られますが、いずれも厚地の綿織物であり、縫製のノウハウが活かされていることが分かります。
備中地区は、江戸時代に藍の栽培が伝来し、藍染綿織物の生産地として名が知られるようになりました。戦後に米国製品のジーパンが爆発的ヒットしたのを受けて、藍染綿織物の技術を応用してデニム生地が作られるようになりました。産地内にはジーンズメーカーのほか洗い加工、ダメージ加工などの関連事業者が集積しています。
備後地区においても江戸時代初めに、福山藩の初代藩主である水野勝成(みずの かつなり)が綿花の栽培を推し進め、綿織物の製織が盛んになりました。1700年代後半、幕府よって倹約政策が実施され、絹織物の着用が禁止になったことも綿織物の発展のきっかけでした。その製織技術のレベルアップにより、富田久三郎(とみた ひさざぶろう)によって、日本三大絣(※1)の1つに含まれる「備後絣(びんごかすり)」といったの名産品を生み出します。
※1【日本三大絣】
広島県福山市の「備後絣」のほか、愛媛県松山市の「伊予絣(いよかすり)」、
福岡県久留米市の「久留米絣(くるめかすり)」がある。
明治・大正時代にかけては、機械化により備後地区の主要産業として発達し、日本人の洋装化に伴い、ズボンなどの縫製業も行われるようになりました。昭和になり、第二次世界大戦が始まると、産業統制によって縫製工場では軍服の生産を余儀なくされていました。軍服の規格は非常に厳格だったため、それが産地の縫製技術の底上げに繋がりました。戦後復興以降は、東京五輪やホテルの開業ラッシュでユニフォームの需要が高まることとなり、備後産地はワーキングユニフォーム産地としてのさらなる発展を遂げました。
当社の主力素材は合成繊維ですが、ユニフォーム分野にも力を入れており、三備地区が当業界において多様性ある役割を担っていることを鑑み、児島地区にも営業所を構えております。産地からの情報収集を密に行い、帆布やデニムのような合繊以外の素材も広範囲にご提案させて頂きます。
先染めした糸で柄を織る「播州織」が有名です。糸を先に染めてから織物にしているため、ナチュラルな風合いと素晴らしい肌触りをもつ生地に仕上がります。その品質の高さは有名で、海外のトップブランドにも使用された実績があります。
用途としてはシャツ地がメインで、ハンカチ、テーブルクロスなど様々な製品に加工されています。西脇産地で作られる先染め織物は、70パーセント以上の国内シェアを占めています。
「播州織」は1792年(江戸時代中期)に比延(現 西脇市比延町)の大工だった、飛田安兵衛(ひだ やすべえ)が、京都西陣より織物の技術を会得し、織機を作ったのが起源と言われています。西脇市を中心とする北播磨(はりま)地域では、温暖な気候を生かした綿花栽培が行われており、染色に必要不可欠な水を調達できる河川も多かったため、織物業が発展する要素は十分に揃っており、綿花農家の副業として営まれてきました。「播州織」の名前は、この「播磨」の地名からきています。
現在、全国の繊維産地が抱える問題として、若手の人材不足が取り沙汰されています。そうした中、西脇産地では、2016年に繊維機械商社出身の片山象三(しょうぞう)市長を中心として「西脇ファッション都市構想」が策定されました。
・ファッションを志す若者を全国から呼び込み、魅力を伝え定住を促進させる
・西脇というまちのブランド化を図り「播州織」の最終製品を創出していく
上記のような目的のもと、西脇市と繊維に携わる企業が協力して「播州織」を盛り上げていこうとしています。
これはまさに、地方都市の抱える人口減という課題と、その対策として地場産業の維持・存続が、地域活性化の両輪であることを表しており、私達マスダが日本国内の繊維産地の維持に重きを置いていることと合致しています。
「今治タオル」で有名な日本最大のタオルの産地です。国産タオルの60%弱の全国シェアを有しています。
普遍的なタオルは、織→晒→染の順番の製法で作られていますが、今治タオルは晒→染→織の「先晒し先染め」製法で作られているのが特徴です。先に水で「晒す」ことにより、やわらかい風合いのタオルに仕上げることができます。この製法には水がたくさん必要なのですが、今治産地には良質の地下水がふんだんにあり、それが可能となっています。
また、今治産地で特筆すべきところは「ブランディング化の成功」を遂げたモデルケースになっている点です。
今治は、日本国内においては泉州産地と肩を並べるタオルの産地でしたが、1990年代初頭のバブル経済の崩壊、中国含む海外からの安価な製品の大量輸入が要因で、生産量は2001年にピーク時の半分まで落ち込み、企業や従業員の数も激減していきました。
転換点となる2006年、今治産地は経済産業省の「JAPANブランド育成支援事業」に選ばれました。さらにブランディング強化のため、アートディレクターの佐藤可士和(さとう かしわ)氏を抜擢しました。佐藤氏は以下の3点を軸に、ブランディングを進めました。
1.「安心・安全・高品質」をブランドの核とする
2.従来のPRポイントだった「色・柄・デザイン」ではなく「白さ」をアピールする
3.厳格な基準を設け、試験の通った製品のみ、ブランドマークの使用を認める
このようなコンセプトを一貫させていくことで、消費者への認知度を高めていきました。
産地の地道な努力に加え、佐藤氏の方針転換により、減少の一途を辿っていた売上が2010年に回復し、その後も躍進を続け、今では世界に名立たる製品になりました。今治産地は、地方活性化を実現させた成功例として、全国の繊維産地から注目されています。
厚地の絹織物の「博多織」の産地です。
模様が描かれていますが、これはたくさんの経糸を用い、細い糸を撚り合わせて作った太い緯糸を筬(おさ)で力強く打ち込むことにより、畝(うね)が表面に現れ経糸を浮かして模様を織り出すという仕組みです
鎌倉時代、僧侶の聖一国師(しょういちこくし)と若い博多商人・満田弥三右衛門(みつだ やざえもん)が中国(宋)へ渡り、織物の技法を習得、帰国して独自の意匠を施した織物が「博多織」のはじまりといわれています。その250年後、さらに研究を重ねるべく、弥三右衛門の子孫・満田彦三郎(みつだ ひこざぶろう)が再び中国(明)へと渡りました。これにより浮線綾(ふせんりょう:織り糸を浮かせて作る文様)や柳条(りゅうじょう:柳の枝模様)などの意匠をあしらった厚地の織物を作り出すことに成功しました。
江戸時代、筑前の藩主だった黒田長政が、「博多織」を筑前の特産品とし、江戸幕府への献上品に指定しました。織元を12戸に制限して、格式と品質を維持するように努め、ゆくゆくは『献上博多』として広く知られるようになりました。
用途としては帯地に適しており、生地の畝によって、結んだ帯が緩まないという特性があります。現代では機械織になってはいますが、福岡の伝統的工芸品として愛され続けており、帯地だけではなく小物、ドレス、バッグなどに用いられています。
いかがでしたでしょうか?
ご覧頂き、日本の繊維業界に少しでも興味を持つきっかけとなれば幸いです。
今回ご紹介しきれなかった産地も含め、日本独自の繊維産業は、全国津々浦々に広がっています。
マスダ株式会社は、日本全国の産地の近くに支店・営業所を構えネットワーク化し、各産地の新鮮な情報を取り入れつつ、営業活動を行っております。
マスダの「定番」素材に限らず、多くの合成繊維・天然繊維の販売実績があります。
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